涙の雫 「あ〜あ。また降ってきちゃった」 結局、知盛が戻るとすぐに知盛の対へ帰る事になり、念の為と牛車で移動している。 再び降り出した雨は朝方よりやや強く、雨音が聞える程度の粒に変わった。 大雨というわけではないが、蒸し暑さ、息苦しさは、今朝方の比ではない。 「せっかく按察使さんがお部屋を涼しくしてくれたのに。これじゃ、どうかなぁ?牛車は最悪だから、 お部屋も期待薄だよね〜」 体を動かすと、じっとりと汗が噴出す。 いっそ運動して大汗を流した方が、さぞかし気持ちがいいのではないだろうか。 それでも涼を期待して扇で風を起こしてみる。 「ここは狭いからだ。少しぐらい我慢しろ」 足元が濡れるのも不快だが、の姿を見せ歩きたくないために僅かな距離を牛車にした。 知盛とて馬の方が楽だし早いのはわかっている。 ただ、それではの姿が丸見えで、今後に差し障りがある。 文句が多い奥方のために扇を取り上げ扇いでやると、向かい合わせで座るが敷物に手をついて 顔だけを突き出してきたため、前髪だけが風に揺られ舞い上がった。 「気持ちい〜かも」 満足気な顔をされれば悪い気はしない。 が、悪戯心も芽生えるというものだ。 が目を閉じていたのをいい事に、瞬時に抱き寄せ口づけた。 「・・・くっついたら暑いって言ったでしょ」 「さあ?」 覚えていないといった仕種でからかう知盛。 も口で言うほど拒否しているわけではない。 落ちてしまった扇を知盛の手に持たせ、続きを強請る。 「くっついてもいいから、せめてせっせと扇いで。知盛って、水分どこいっちゃってるの?」 汗が薄っすらと滲むの額に比べ、試しに撫でてみた知盛の額はいつもと変わらない。 そんなわかりようが無いものに対する答えは持ち合わせていない知盛。 肩を竦めるだけで、扇ぐ手を休めずに動かし続けていた。 知盛の対へ戻れば、先に経正が按察使に連絡をしていたのだろう。 寛げる用意がされており、宴の件についても確認程度で用事は済んでしまう。 「には薔薇の襲色目を用意してくれ」 「畏まりました」 舞装束の色目を、にだけ紅を取り入れるように変更する。 先だっての舞の時と同じ装束では味気がないし、表を紅、裏を紫で重ねさせる事に意味がある。 (古来より魔除の色ともいわれる紫には、よほど縁があるらしい) 暑さのせいか、床に薄い敷物だけを敷いてもらい転がるを眺める。 知盛の対への出入りは限られた者のみである気軽さから、薄物だけになり大変油断した格好だ。 知盛にすれば好ましい限り。 (確か・・・オイシイと言うのだったな?) 己に都合の良い状況をその様に言うのだと、将臣に教えられた記憶が甦る。 按察使に向かって御簾を巻き上げた紐を指差して見せると、静かに母屋へと身を滑らせた。 知盛の意を汲み取った按察使は周囲に指示をし、手早く辺りを整えて菊王丸へ声をかける。 「菊王丸。あちらの渡殿の方がよろしいですよ。何か菓子も用意いたしましょう」 廂近くの簀子で控えていた菊王丸は、一瞬だけ視線を御簾内へ向けると、の式神たちを手招きし、 按察使に従いその場を離れた。 按察使は大きな溜息を、他の女房たちは小さな笑いを零す。 渡殿の一角に場を整えられた菊王丸は、首まで赤く染めて控えていた。 しとしとという雨音の調べを聞きながら、御簾内から外を眺めるのも一興である。 に単だけを着せ、その背に添う様に寝転んでいるのは知盛。 互いが脱ぎ捨てた装束の上でまどろむのがなんとも贅沢と感じるのは、その色目の鮮やかさから。 これが洋服だとしたら単なる脱ぎ散らかしだろう。 そこまで考えてがくすりと笑いをこぼす。 「・・・どうした?」 「何でもない」 腰に回されている知盛の手に手を重ねる。 視線を伸ばしたままの右腕へと移せば、腕輪が鈍く光を放つのが見える。 気持ち手首を上下させると微かに音がした。 「・・・気に入ったのか?」 「うん。知盛のだったんだもんね、これ」 偶然にも腕輪である。 枷をつけたいほどの独占欲があったのだとしたら─── 「クッ・・・困った時は売るんだな」 細工を施した一級品だが、元は金。 売ればそれなりの額にはなるし、物々交換でも米が手に入るだろう。 「困らないようにしてくれるんでしょう?だって・・・これ、もう私のだもん。売りたくない」 腕輪に軽く口づけると、丁寧に彫られている紋様を眺める。 「しっかり働かせていただきますよ」 「そ〜して。あと・・・知盛のみたいの欲しい。これ落としたら困るの。ううん。絶対に失くしたくない」 重ねていた手を動かし、知盛の手に左手の小指にある指輪を触れさせる。 「皮紐か?・・・もっと似合うモノを贈らせていただきましょう」 ヒノエに言われて用意していたものが、早速役立ちそうだ。 (流石は熊野の色男殿だ) に何を贈ればいいのか迷うと口では言うが、用意してきたものは唐菓子に細工も見事な扇。 彼の人の好きなモノ、重荷にならない程度を心得ている。 その上、知盛が指輪を依頼した時に、今回運んできた極上の金の鎖を見せられた。 『腕輪はいいけど、指輪は姫君は出来ないと思うよ?アンタも剣を使うならわかるだろ?』 柄を握る時に握りこみが変わってしまう。 まして、金は材質が軟らかいが故に細工がしやすいのだから、傷みがあるのは指輪の方。 髪紐の時からしてにとってのモノへの価値観は知盛と違う。 『クッ・・・買わせていただく。按察使に代金を言付けてくれ』 『どうも。一応は商売もしないとね。どうせなら最高の物を身につけて欲しいだろう?』 の場合、ただの紐でも良しとしてしまうところがある。 目的が失くしたくないという一点に絞り込まれたら、それこそ、その辺の紐で済ませてしまうかもしれない。 の頬に触れ、すぐに立ち上がる知盛。 衣装箱を開け、適当に着物を着込むと、奥にしまっておいた小箱を手に元の場所へ戻る。 「その細い首に無粋な皮紐をさせるほど・・・野暮ではないつもりだ」 の左手を取ると、小指から指輪を抜き取る。 細い金の鎖へそれを通すと、を抱き起こし髪を纏め上げた。 「髪を・・・押さえていろ」 「うん」 何か紐を用意してくれていたらしいと覚ったは、素直に両手で髪を押さえて待つ。 するりと首に触れたのは、細い金の鎖。 この時代すべて手作りなのだから、相当な代物に違いない。 「と、知盛?これ・・・・・・」 鎖と指輪が触れ合うと起きる、微かな音の響きも心地よい。 「別当殿が・・・は剣を使うのだからと仰ってな。商売をしにきた」 「やだ、ヒノエくんたら。でも、そうかも。最近、剣を握ってなかったから忘れてた。・・・失くしたくないって 思った方が本当だよ?」 誤解をされたくない。 高価な装飾品が欲しかったわけではない。 指輪だから出来るだけ長く指にしていたかったのが本音。 福原へきてから剣を握ったのは数回しかないし、修行も出来ないでいる。 もしも修行をしていたら、もっと早くに思いついたに違いない。 身につけて眺めるのは、もう少し先にすべきだという現状についても。 「ああ。わかっている」 の気持ちも、ヒノエが知盛が納得するように話を切り出したことも。 あの泥だらけになった髪紐の事がなければ、知盛には理解できなかった想い。 「よかった〜。・・・これ、すっごく高くない?その・・・大丈夫?」 値段で順位をつけるならば、が身に着けている装束の方がはるかに高価である。 が考える価値の順序は、日常必要なモノとそうでないものから分類されるらしい。 確かに装飾品の類は無くても困りはしない。 「・・・せっせと働いているからな」 「嫌味んぼ!すっごく綺麗で嬉しいなって思ったのに。・・・・・・アリガト」 知盛の膝を抓りながら礼を口にする。 すぐに知盛はを膝上へ抱え上げると、項へと口づける。 「妻が美しく着飾るのは喜ばしい」 ついとの胸元にある指輪を持ち上げて眺める。 陽に透けた薄紫の光は、の白い単に光の足跡だけを残す。 「変なの。初めて会った時、こんなひらひら綺麗に着飾ってなかったよ?」 知盛はが知らないうちに、かなりの装束を買い込んでいるようだ。 元々は手荷物で持ってきた着替えだけのはずが、覚えのない衣装まで着せられているのだから、わからない方が どうかしている。いま周囲に散らばっている着物は、福原で増やされたもの。 「妻に・・・と申し上げたと思うが?妻が着飾って見せる相手は夫君だけだ」 「飾っても、飾らなくても、私は私だよ。・・・でも、知盛に綺麗って言われるように努力はするからね?」 知盛から指輪を取り上げると、胸元の合わせ目へとしまい込む。 「これも私の宝物。大切にする」 存在を確認するように、胸元を押さえた。 「・・・もうしばらく、このままでいるか?」 の支度は寝所にいる時のもので、あまり褒められたものではない。 自らの楽しみのためにの衣を軽くさせたが、湿度による不調が気になるところだ。 「うん。・・・また降り出したみたいだね」 雨音が微かに響く御簾の外をぼんやりと眺めだす。 知盛に背を預けてきたの呼吸は穏やかなものだが、眠っている訳ではない。 「何を・・・考えている?」 外の天気も、今宵の宴も興味がない。 の髪に頬を埋めたままで返事を待つ。 「夜、雨が止むといいなぁ・・・とか。そうすれば外の舞台で知盛と舞えるし、それを皆に見せたいし。 後は・・・・・・」 雨が庭の木々に降り注ぎ、葉にあたる雫が音を奏でている。 始めは己がすべき事が残っていると感じて福原へ来たかった。 仮の宿とはいえ知盛が暮らしていた土地の風景を見たかったのもある。 だが、それだけでは済みそうにない。 (そう・・・引き金は私が引いた。目覚めるモノに引き寄せられたのは、私。声を聞いたのは、朔) そして、決着をつけるための流れが整えられつつある。 (偶然なんかじゃない。必然・・・これが、私が変えてしまった運命・・・・・・) 白龍の鱗を単の上から握り締める。 源平が歩み寄る道を。 知盛を死なせない先を。 二人で過ごせる時間を。 が選び取った未来による歪みが、その姿を見せた。 (もうこれに頼らずに・・・・・・) の我侭を通したから、誰かの未来を変化させてしまったのだとしたら。 この世界の歪みを浄化する最後の機会なのだとしたら。 「大掃除・・・しなきゃね。私にしかできない・・・・・・手伝ってね」 戦ではない。 利害が一致しないからには戦いを避けられないが、戦乱の世に戻すためではない。 知盛の手に手を重ねると、指を握りこまれた。 「血の粛清よりも、クズの排除・・・か。クッ・・・掃除とは上手いことを」 毒を含む血ならば、流してしまえばいい。 不要なモノは切り捨てればいい。その程度の事だ。 「・・・違うよ。掃除したあとって、ぴっかぴかで嬉しくなるもん。ただ、手を汚さないでお掃除は出来ないんだ。 それは解ってるから。取り除いてポイって意味じゃないの」 按察使が整えてくれたこの部屋は、当初と同じ場所にもかかわらず過ごしやすい。 磨き上げられた床、が好きな色目の設え、何もかもが様変わりを見せた。 「好きにしろ。どの道お前は勝手に行くのだろうさ・・・・・・」 がすべき事のために突き進むのを止める術は誰も持たない。 答えは最初から決まっているのだ。 「そ〜する・・・・・・」 遠のく意識を辛うじて留めつつ、知盛の温もりに包まれる。 朔、待ってるからね─── 雨空の下の親友の姿を想い、黒龍の欠片に出会えることを祈った。 |
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あとがき:のたのた進むのです。梅雨はまったりがいいです。 (2009.04.07サイト掲載)